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2016年10月21日金曜日

未来のために現在(いま)を生きている、のだ!!

日産自動車は2016年10月20日、三菱自動車に2370億円を出資し、発行済み株式の34%を取得。単独筆頭株主となり、事実上の子会社として傘下に収めることになった。

カルロス・ゴーンルノー・日産アライアンスCEO兼会長が益子修三菱自工社長と記者会見を行い、三菱自工会長にゴーン氏が三菱自工次期会長候補に選出されたことと同時に、益子社長が引き続き三菱の顔として留任し、先に取締役 副社長執行役員として就任している山下光彦氏に加えて、トレバー・マン日産チーフパフォーマンスオフィサー(CPO)の三菱自動車最高執行責任者(COO)就任予定などがアナウンスされた。

益子社長の留任によって、日産による三菱支配ではなく、あくまでも三菱ブランドの独自性を活かした再生を目指し、シナジー効果を発揮する提携(アライアンス)関係を築く。実質的に子会社だが、日産のポテンシャルを見極めた企業統治で上下関係を際立たせないルノー流を貫くゴーンスタイルの再現。17年間という長期政権を実現し、気がつけばトヨタ、VWグループに次ぐ世界第3位の一大勢力に昇りつめている。

ルノー日産アライアンスは、すでにダイムラーとのパートナーシップ強化を発表(9月30日@パリショー)しているし、ロシアのアフトワズの経営権も握っている。また、中国では東風汽車と日産の合弁で100万台超の日本勢最大の生産/販売を実現。今回の東南アジアに強いブランド力を持つ三菱のアライアンス入りで、南米/アフリカ/中東を含む全世界のマーケットを隈なく掌握したことになる。

現在世界最大の販売台数を誇るトヨタグループを脅かすのは、EUと中国頼みのVWではなく、ルノー日産にダイムラー&三菱というかつて資本提携関係にあった日独名門企業が加わるアライアンス?

これで今年12月31日に任期切れとなるディーター・ツェッチェCEOの後任にC.Ghosnが指名されたりしたら、オセロゲームの3コーナーを押さえたような眺めになるね。

いや完全なる脳内妄想ですが、ゴーンさんが納得できる次なるポジションといったら世界一となるアライアンス連合のトップしか残っていないでしょう?

パリのMondial de l'Automobile2016でダイムラーが急転直下のEVシフトを打ち上げた背景には、年初のデトロイトNAIASでFORDのマーク・フィールズCEOが行った画期的なプレゼンテーションがきっかけとなったのではないかと想像しますが、かねてからEV路線の急先鋒だったルノー日産がEV・PHEVに独自の高い技術を持つ三菱を傘下に入れることが効いたのでは?

先行きのことは依然不透明ですが、時代が大きく動く予感があります。注目は来月14日から17日にかけてロサンゼルスで行われるLA autoshow プレスデイの新機軸、Automobility LA。従来のクルマの見本市という形態からモビリティに踏み込んだ新自動車業界向けの真正トレードショーとしての枠組み。

主要自動車メーカーや大手テクノロジー企業はオートモビリティーLA期間中に重大発表を予定しているとアナウンスされているが、先のNAIASでAuto&Mobility Companyになることを宣言したフィールズCEOが基調演説を行うことになっている。

youtubeにアップロードされているNAIAS2016のフォードとMondial de l'Automobile2016のダイムラーAGのpress conferenceの動画を見比べながら、激動の兆しが見える2016年の終盤を夢想するのも悪くはありません。





2016年9月7日水曜日

うわッ、やってしまった!!

http://www.mag2.com/m/0001538851.html


まぐまぐ!伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』読者の皆様へ。

過日ご案内しました配信日の土曜日から火曜日の変更。まぐまぐカスタマーサービスの尽力により今月からになりました。

昨日唸りに唸って書き上げ、配信前にこれまでの3回を読み直したところ、重複箇所が多数あることに気がつきました。思い入れが激しすぎた結果でした。送信直前に書き直しを決断。結果一日遅配ということになってしまいました。

奮起を期した末の空回り。このブログでも予告した三菱自工の件も次号送りです。重ねて陳謝します。

2016年9月4日日曜日

三菱自工、不正の検証作業でまた「不正」発覚のニュースに思う。

三菱車は本当にXか
第一線で活躍する、自動車ジャーナリスト49人が語る「ミツビシ」


   刺激的なタイトルが目を引くが、実はこれ今から12年前に出版された雑誌の話である。CARトップ 2004年9月号臨時増刊。CARトップ編集部とは日頃誌面での付き合いはなかったけれど、ことの重大性と緊急性に即答で原稿執筆依頼に応えた。

   表題にあるように、執筆陣は第一線で活躍する自動車ジャーナリストや編集者だった。その中で私の一文はかなり辛辣なほうであり、大方は『ガンバレ三菱!』といった今でも変わらぬ、まずは擁護する姿勢を明らかにし、クライアントを気遣うトーンの語り口に終始する意見だったと記憶する。

 自動車メディアの批評の精神に欠けたジャーナリズム不在は今に始まったことではなく、私がフリーランスとしてライター稼業に専念するようになった1970年代後半から伝統的に受け継がれてきた事である。

 情報の大半を自動車メーカーをはじめとする産業界に依存し、広告料を収益の柱とするビジネスモデルとしながら、自動車産業と軌を一にして成長を遂げた。商業出版の成長神話は1980年代後半のバブル経済とともに極大化し、バブル崩壊とともにブルーオーシャンからレッドオーシャンの様相を呈するようになった。

 1990年央のWindows95の登場によるインターネット時代の幕開けが、メディア多様化に伴う出版不況の出発点と捉える見方は正しいが、同時に日本の自動車産業の成熟に伴う日米自動車協議の紛争状態に近い激化とその妥結によるグローバル化のシフトが、基本的に日本国内市場でしか機能し得ない自動車メディアの衰退の最大要因となっている。

 メーカーを中心とする日本の自動車産業は、日本語の壁に守られて対外競争に晒される事はないが、しかし国外に出て勝負する現物を持たない自動車メディア界とは違って、国内生産の1.5倍に達する海外生産を加えて世界一の販売シェアを手に入れた。

 バブル崩壊後は、バブル期に”石橋を叩いて渡らなかった”トヨタが深手を免れる一方、売れるだけ作り財テクに走りR32スカイラインGT-RとP10プリメーラといった未来に何も残せない狂気の技術信奉に邁進して崩壊寸前まで行った日産。

   同じく販売5チャンネル制をぶち上げSKYACTIV/魂動デザインで息を吹き返すまでフォード支配下に沈んだマツダ、バブル期のRVブームを牽引したパジェロ・デリカスターワゴンの2枚看板に頼り切りギャランVR-4に続くランサーエボリューションで量産モデルの息の根を止めた三菱、バブルの徒花NSXとBEETに現(うつつ)を抜かしていたら北米一本足打法のボロが出て川本信彦社長と有沢徹RADの機転でクリエーティブムーバーを創造して窮地を脱したホンダと明暗を分けた。

   GT-R、ランエボ同様のグループA由来インプSTiに入れ込んで、日産-GM-トヨタと提携先を変えた挙げ句に日本市場を後回しにして北米一本足打法で起死回生を成し遂げたスバル。いずれも、各社の国内販売比率は全生産の20%どまりであり、国内に基盤を持てなくなったという点は同じだが、筋の悪さでは三菱が群を抜く。

   思い起こせば1995年である。現在の凋落の基点ともいえる三菱GDI(ガソリン直噴エンジン)開発を仕切った技術者上がりの中村裕一社長が、後継最有力と見られていた鈴木元雄副社長ではなく常務序列4番目の塚原董久常務を抜擢する仰天人事を断行。その後三菱リコール劇の端緒を拓くGDIの技術的虚偽に始まる企業風土に根ざした隠蔽体質が日の目を見る。

   1996年に発表されたギャラン・レグナムに搭載されたGDIは、1954年のメルセデスベンツ300SL以来の乗用車用筒内ガソリン直噴エンジンとして注目を集めたが、燃費やNOx・HCなどの排ガス対策に課題を多く残していることが判明。リコール問題に至る過程で隠蔽体質が明らかになり、その露顕を恐れた企業ぐるみの負の連鎖でブランドは深く傷つけられた。


 RVブームの勝ち組として『日産の背中が見えた!』と豪語し、ホンダを吸収合併するのではという怪情報まで飛び交った当時3位メーカーの三菱のその後の20年は茨の道であり、2000年と2004年のリコール隠し発覚から今回の燃費不正とオリンピック周期と揶揄されるほどに頻繁に不祥事が巻き上がる事態が続いていたが、パブリシティへの依存を高めるあまり正面きって批評批判する自動車専門メディアは稀だった。



 結局のところ、ジャーナリスティックに言うべきところで自主規制をしてスポンサー筋となっている自動車メーカーに嫌われる事を避けるメディアの体質が事を大きくしている。

 冒頭に貼った『今、三菱がなくてはならない自動車会社と言うひとはどれくらいいるか』という一文は、12年前に書いてメディア業界内では眉をひそめられたやに聞いている。僕は、文中でも述べているように書いていて心地よい気はしなかった。しかし、1980年代の発展段階からずっと身近に接してきた立場からすれば、ある種の必然の結果と言えなくもない。

 ことに1985年に始まったワンメイクレースの『ミラージュカップ』のメディア/ジャーナリストがべったりとなったいかがわしさは、同じ年に始まったVWゴルフポカールカップと並んで双璧を成す。

 1985年は時代の分水嶺として記憶される年だが、それは同時にメディア/ジャーナリストが特権的にメーカーから供与を受けてモータースポーツ界に進出した端緒でもあった。すでに30年が経過したが、今名の挙がる走りを得意とするジャーナリストはほぼ三菱やVWのワンメイクレースで身を起こしている。

 ここから先はブログでは書けないので、まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』(有料配信:月額864円税込)http://www.mag2.com/m/0001538851.htmlに譲りたい。何故日本の自動車メディア空間がこの体たらくなのか。パブリシティか提灯記事しか書けないライター揃いなのか。僕の考えが伝わることを期待します。

 再び厳しさを増しそうな三菱自工の燃費不正に関するニュースに接して、もう要らぬ遠慮は日本のためにならない。そうはっきり言うべきだと思った。




2016年3月1日火曜日

閏年のジュネーブショー2016

 今年もやって来ることができた。ジュネーブショー (Salon International de l'Auto)通いはかれこれ13年 ぐらいになるだろうか。デトロイト、フランクフルト、パリに次いでここに来ようと決めて、その後上海・北京・広州、ロサンゼルス、ニューヨークと拡げていった。

 デトロイトスリー(かつてのビッグスリー)のNAIAS(北米国際自動車ショー)、ジャーマンスリーが幅を利かすIAAフランクフルトショー、IAAと持ち回りのパリ(Mondial de L'Automobile)などと違って、自国に大手自動車産業を持たないスイスの国際都市で開催されるジュネーブショーは、基本的にフェアであると同時に、『サロン』の雰囲気を濃密に漂わせる。もしも、世界で一つだけ取材の場を選べと言われたら、躊躇うことなくジュネーブと答える。

 ジュネーブ・コワントラン空港から徒歩数分でアプローチできる至便に加えて、手頃な大きさのPALEXPOコンベンションセンターの丁度良さは抜群。ジュネーブは物価が高く、宿泊や食事に断えず苦労させられるが、すべてを差し引いてもここの雰囲気の良さが優る。

 今回は3年振りにフランクフルトから陸路ジュネーブ入りすることにした。格安のカタール航空のチケットが羽田~ドーハ~フランクフルトだったからだが、取材元のdriver誌がホンダ特集を組むというのでHR-Vを借りたこととと、この先いつ取材断念の時が来るかもしれないので、もう一度フランクフルト~ジュネーブを味わっておきたいと思ったから。

 案ずるより生むが易しで、その気になると話が向こうからやって来る。ジュネーブ近郊に在住の旧知のディレクターから、「来るのならお手伝いしますよ」のメール。スイス在住32年の女性と住んでいるとのことで訪ねてみると、住まいは地上2階地下1階。地下には核シェルターを備えるという。スイスではすべての建築物には基本的に設置が義務づけで、『へえ?』盛大につくトリビアに満ちていた。

 現在修理に入れているBMWの整備ガレージに面白クルマがあるというので出掛けてみると、話のあったマセラティのクアトロポルテ1965よりもさらにレアなポルシェ911(930)ターボ・タルガがあったり。27日0時15分羽田発で同日12時30分フランクフルト着。オッヘンバッハのホンダでHR-Vをピックアップしてシュトゥットガルト泊。ポルシェ博物館を見学して夕刻ジュネーブ入り。LAからのカメラマンケニーナカジマと合流して、フランスのアンネマスに宿舎を構える。

  で、今日のジュネーブショー取材で初めてジュネーブの深いところに触れる機会を得た。明日から本番のサロン・アンテルナショナル・ドゥ・ロト。良い取材になるといいなあ。

2015年10月20日火曜日

シンクタンクとの意見交換会で思いついたFreedom of Mobilityについての連続ツイート10連発!!

シンクタンクとメディアの意見交換会に垣間見た日本の縮図(問題点)

 私は、1952年生まれ。1970年18歳で自動車免許を取得し、自動車運転歴は45年を数えた。免許取得前年は70年安保の騒乱の時。高校時代は3年の3学期までボールを蹴るサッカー小僧で、当然のことながらノンポリ。同級生に"どかヘル/角棒"にかぶれた者もいたが、抱いたのは違和感だけだった。

 運だけはいいようで、職員会議(留年対象)の常連だったのに大学入試はストレートで合格。専大法科。神田神保町の校舎は今とは違い古びたボロで、実家に近い生田グラウンドが体育の授業の場だった。

 サッカーの継続を希望したが、"詰め襟『押忍』" の体育会にどうしても抵抗があり諦めた。18歳、63になった現在の自分など想像できるはずもなく、未来は厚い靄の向こう。ヴィジョンもなく、身を以て触れられるモノだけを信じる他はない。

 高校同級のヤナギサワは、今も音楽が生活の一部にあるメジャーデビュー経験のあるミュージシャン。3年通った大学をドロップアウトするまではしばしツルんで4弦を弾いたこともある。しかし(これは違うな)の念が湧いたハタチの頃、バイト先のGS(ガソリンスタンド)で一冊のカッパノベルと出会い自動車レースに目が向いた。

 GSの元売りがスポンサーとなっていた関係で、当時のスターレーサー生沢徹の『デッドヒート』が送られてきて、たまたまそれを目にして憧れた。著名な生沢朗画伯の御曹司。私とは背景が雲泥の差であり、こちらに可能性などあるはずもない。

 今ならそう気付けるが、基本的に若さは馬鹿さである。20歳のスタートアップは遅く、GSのバイト代が資金では知れている。3年を要して貯めた100万円はマシン製作に取りかかると3日で消えた。

 高校同級で生徒会長だったヨコヤマがGSのバイトの紹介者。整備士を志していた彼をチーフメカニックにした素人でチームを組み、GSのガレージでマシンを仕立て富士フレッシュマンレースを皮切りに参戦を始めた。

 マシンは、当時かぎられた入門カテゴリーのTS1300の定番サニークーペ(B110)。OHVの1298㏄で8500rpmは楽に回り、究極は165馬力まで行ったが、ビギナーの私の東名チューンは140馬力から始まった。公認車重は645kgであり、比出力5kg/psを切るパフォーマンスは今なお伝説として残る。

 資金作りのバイトに励む中、1973年10月に第4次中東戦争が勃発。それをきっかけにスーパーマーケットからトイレットペーパーが消えた第一次石油危機の大混乱が訪れる。GSにガソリンを求める行列ができ、「10ℓしか売れません」と言ってはドヤされた。

 悪いことは重なるもので、同年11月富士GCレース最終戦で中野雅晴、翌年6月の同第2戦で風戸裕、鈴木誠一が何れも焼死によって命を落とす不幸が続いた。6月2日のGC第2戦には、亡父を伴い観戦に出掛けた。

 好き放題させてもらって、いろいろ迷惑掛けっぱなし。申し訳なさもっあって、一度やりたいことを見てもらおうと考えた。そこで見た紅蓮の炎が立ち上がる大惨事。「お前、これをやるのか?」父から発せられた一言が今も耳に残る。

 デビューレースは1975年の10月だったか。富士フレッシュマンレースで、結果はバッテリーが外れて(笑)リタイア。予選はトップ10には入っていたと思う。翌年もフレッシュマンシリーズ。5戦ほど出て、2、3位はあったが優勝は叶わなかった。

 1977年は印象に残る。6月4日の富士スピードウェイ。JAF富士GPのTS1300レース決勝で3位表彰台を得る。スタート直後にクラッチをバーストさせたマシンがあり、その破片を踏んだ上位が脱落してのタナボタだが、リザルトには間違いない。

 翌78年8月までなんとかチャレンジを続けたが、これ以上を求めるには資金が絶望的に不足した。足かけ4年間で600万円ほど稼いでは使った。振り返れば「よく続いたもんだ」であるが、もちろん続けたかったのは山々だ。

 今思うと漫画だが、当時は本気も本気。メモ書きに”F1を追い続ける!”なんて記している。こういう若いバカが夢中になってやっていると、気にしてくれる人も現れる。

 GSのお客に異なる自動車専門誌の編集者が二人。それぞれが声をかけてくれ、私の雑誌デビューはライター稼業に入る前の1977年(その後一度も仕事に関わったことがない、いやあるか)CARTOPモノグラ3ページ。ライターではなく、レーサーとしての登場だった。

 「これからはフリーランスの時代になる。やってみないか」もう一人の編集者が私の人生を変えた。実際その通りになって、37年後の今の私がいるわけだが、何しろ当初は文章など一行も書いたことがない。学校時分の夏休みにあった作文の宿題。あれを書いて行くより授業中一時間立たされることを選んだ。それを知る同級生は誰もアイツが物書きになったとは信じないが、誰よりも自分かそうである。

 なんでやってこれたか分からない。最初の頃は原稿を「落とす」のも度々で、誰もが3年と続かないと思ったに違いない。我ながら不思議だが、苦しんだけれど何度もやめようと思ったけれど奇妙な崖っ淵感があって踏みとどまった。

 石の上にも3年、一万時間の法則ということだろうか。振り返って気付いたことだが、駄目を承知で耐えたことが今に繋がる。10年続けられれば大抵のことはモノになる。未来は創ることができるけれど過去は変更が効かない。

 まあ失敗だらけであり、天狗になっていたのかなと反省するところもあるけれど、人を陥れるような嘘だけはついたことがない。この10年間は、世の中こんな狡い奴がいるんだ‥‥自らの脇の甘さを身に沁みて振り返る日々が続いた。

 火のないところにの譬え通り、相手あってのこと。自分の思いとはかけ離れた曲解はあり、それを拾い歪めて吹聴する。そういうのにかぎって徒党を組み、数に頼んで嘘を事実として蔓延させる。何を言われてもその手と一線を画すことだけを考えて、孤立無援の立場を甘んじて受け容れた。

 間違いは多いかもしれない。失敗は山のように積み重ねている。しかし還暦も3年が過ぎ、この期に及んで濡れ手で粟など考えもしない。借金は気になる。過去10年の油断が招いた苦渋の結果であり、最優先課題。何とかするが、先のことはなるようにしかならない。

 気がつけばライター稼業は37年。アマチュアレーシングドライバー上がりでここまで来た先例のないハシリであり、バブル期までの10年間にゴチャゴチャとあらゆるジャンルに首を突っこみ、記名にならない原稿書きを経て何とか格好をつけた。

 現在63歳。私より年長の先輩は数えるほどになり、後進は年長/年少を問わず自動車産業が膨張したのに合わせてメディアが増殖したバブル期以後の人々。ようするに自動車産業が成熟期に入ってからの価値観しか知らない持たず、巨大強大化した自動車メーカーの情報量、資金力に支配され、メディア/ジャーナリズムに欠かせない批評の精神で対峙することより、PRの片棒を担ぐことが生計を立てる賢い道。そう考える『プロフェッショナル』が大勢を占めるようになってしまった。

 今日(19日)、三菱総合研究所がメディア意見交換会を開くというので出掛けてみた。永田町の東急キャピタルタワーの同社が会場で、しばらく訪れない内に日枝神社周辺の街並みの変貌ぶりに驚くやら戸惑うやら。

 会のテーマは『自動運転技術で未来のクルマはどう変わるか?』最新技術として注目されている自動運転やITS(高度道路交通システム)の話で、スピーカーは40代半ばの首席研究員であるという。私は初めての参加だったが、月一で定期的に開催されているそうで、新聞、WEB、業界専門誌など様々なメディアが数十名詰めかけていた。

 30分ほどの基調スピーチに新味はなく、トピックスとしては今年フランス・ボルドーで開かれた第22回ITS世界会議ぐらい。優秀な人材なのかもしれないが、意見交換会と称しながら、語られるのは三菱総研というブラントを背景にした立場や身分から得られる情報の伝達のみで、弁舌爽やかは買えるが中身はない。

 取材(?)するメディアも未熟なおこちゃまばかりで、意見交換会の趣旨どこ吹く風で記事化しやすい瑣末なデータやファクトをQ&Aスタイルで聞きたがる。新聞/雑誌/放送すべてのメディアに言えることだが、専門性が求められる分野なのにやって来るのは経験が浅く意見も持たない若手中心。彼らを通じて流される通り一遍の情報は、正確さや間違いのなさに気を取られた面白みを欠くもの。その多くは行政に聞くべきファクトで、三菱総研とはいえ民間に尋ねる筋合いではない。

 もうスピーカーも受けるメディア側もクソそのもので、サラリーマンの儀式儀礼のように会が流れて行く。痺れを切らして手を挙げた。

「新しい技術として注目されている自動運転やITSですが、そこでの視点は『便利で正しい』といった行政側からみた管理型の側面を感じる。商品としてのクルマの第一義的魅力はFreedom of Mobility。『面白いかどうか』が大事で、正しい←→面白い両睨みの視点が必要だと思います。仕事がら先進国を中心に海外の走行環境を経験しています。地球上に約10億台のクルマが走ってますが、現実の路上に大きな変化は見られない。米国運輸省(DOT)、同国家道路交通安全局(NHTSA)が進める安全システムというミクロの視点ではなく、世界の大都市はどこもカオスというマクロで見ると、正しいことを主張するだけでは動かない。従来型のクルマが主流を保つとは限らず、未来が過去の延長線上にあるとは言えなくなりつつある。まったく違う体系を考えた方がいいのではないか?」

  質問ではなく、感じる疑問について意見の交換を求めようと思ったのだが、「難しい話ですね‥」と言いながら、踏み込んだ意見を聞くことはなかった。行政官僚のように上意下達で、民(メディア)が恐れながらとどうでもいいディテールを聞いて仕事をしたふりをする。民間のシンクタンクの研究員が行政官僚みたいな振る舞いをしてどうする。ネタを仕入れることに汲々とするメディアのおこちゃまも情けない。

 最悪は、数名列席していた同業者でフリーランスのメンバーシップの代表とサブその他もいたのだが、会を代表して意見の一言も吐という気概もない。お開きのあとコソコソ名刺交換している場合ではなく、その場でなんとかするのがプレゼンスを上げるということ。できないならさっさとお引き取り願いたい。

  この一月嵐が吹き荒れたVWの排ガス規制不正問題。やはり世界の自動車産業に深刻な影響を与えることが明確になりつつあるが、マスメディアはともかくより専門性の高い自動車メディアに属するジャーナリストから積極的な発言が沸き上がらない。

 これまでの企業に寄り添いすぎた経緯からすれば仕方のないことだろうか、VWの不祥事は国内の自動車メディアの現状現実をも浮き彫りにさせた。沈黙して嵐が過ぎるのを待っているとしたらとんだお門違いということだろう。我々の顧客は大手自動車会社をはじめとする企業ではなく市場の読者でありクルマ好きなのだ。ここでの対処を誤ると、VWがそうであるのと同じように壊滅的な結果を招きかねない。

 私が今回のVW問題を契機に発言を強めているのは、40年近くこの世界に生きてきて最大級の危機だと感じているからに他ならない。それは単にメーカーやメディアの問題にとどまるのではなく、クルマそのものの未来が問われていると直観するからである。

2015年10月19日月曜日

メルマガ配信。VWが駄目だと思う理由


10月17日号のさわりです。

講読よろしくお願いします。



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伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』
第162号  2015.10.17


●この10年を振り返るところから考える

 予想通りと想定外。不正発覚から一ヶ月、フォルクスワーゲン(VW)による排ガス規
制逃れ不正ソフト使用問題は、組織的かつ大規模という点で一私企業に留まらずドイツ政
府や欧州連邦政府、それぞれの規制当局や政治中枢を巻き込んだ世紀のスキャンダルの様
相を呈している。

 今年は2015年。21世紀のセカンドディケード(旬年)の半ばであり、世紀の変わり目が
明確になる頃合いだ。振り返ってみると、末尾5年が付く10年括りのディケードは俗に10
年ひと昔と言われる変化のワンブロック(塊)であり、社会的にはもちろん個人的にも節
目になっている。

 2005年は愛知博の開催年だった。調べたところドイツ年でもあった。『ドイツ年』は、
開催5年前の1999~2000年にドイツで行われた大型文化行事『ドイツにおける日本年』の
成功を踏まえもの。時のドイツ首相シュレーダーが開催を希望しドイツが準備したという。
あまり記憶にないが、そういうことだったらしい。

以下は、本編で。ご購入の上お楽しみください。(かなり長いです笑)
http://www.mag2.com/m/0001538851.html